稲荷山神社のご紹介

〔大阪稲荷山神社〕再建と稲荷山の歴史をたどる。

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この神社は、私がこの地にペット霊園を計画するずっと以前より、ここには、伏見稲荷の分社がお祭りされていると伺っておりました。
平成十三年三月九日、私がこの地を買い受け現地に来てみますと、永年風雨にさらされ崩壊寸前の状態でございました。
調査を致しますと幸にも、当時の貴重な資料が発見されました。
正面祭壇の下より、大阪市西区江戸堀下通二丁目一八八番地 木津亀之助氏が明治四十五年六月二日に、京都伏見稲荷神社より、正一位豊成稲荷大神璽をさずかった授与証、並びに金参佰参拾円を寄贈した伏見稲荷神社の領収証、又屋根板を解体した所に建築に携わった方の名を列記した棟札が見つかりました。
私がこの地を購入した当時、この神社への通路は無くなっていましたが、神社正面西側に伺って、無数の玉壇が地中に埋まっておりました。
その一部を霊園管理事務所前に残しています。

平成二十一年二月この神社の北側阪奈道路を東に越えてすぐの山の上より、稲荷大神の碑が建立された場所が見つかりました。

大正二年に建てられた事が分かっておりますが、地震等で倒れ、又火事で焼けてしまい石も損傷しておりますが、追って再建しようと思っております。この神社正面に向かって右側に、木津亀之助之碑文が建っております。
これによりますと、木津亀之助は慶応三年九月に根津家に生まれ、年頃に木津家の養子となり、根津商店の経営も取り仕切っていた事がうかがわれます。
明治三十年四月十九日にこの土地を購入し、明治三十六年楠根村稲田に山矢織布工場創業。続いて意岐村菱屋東に木津織布工場創業し河内の錦織物工業の隆盛期に操業を開始した最大規模の工場でした。
しかし、大正二年五月十五日 四七歳の若さで死去し、これ以後、河内の織物は泉州に対して大きく遅れをとり、木津亀之助の死去が河内の錦織物産業の衰退を早めました。根津家の御寮人、根津松子の計らいで、文豪谷崎潤一郎が昭和六年九月から、約二ヶ月仮住まいした根津家別荘は、木津亀之助が山矢綿布工場を設立し、事業隆盛の時に、そもそも大軌鉄道の開通による沿線開発を予想して土地を買収し、山荘及び従業員寮とした建物でした。木津亀之助の死後、根津家の別荘として使用されていましたが、昭和初期の大恐慌の頃には江戸時代より続いた豪商根津商店も輸出商社としての社業が続き、昭和七年に倒産しています。

碑文の最後に次の様な詩が記されています。

『この庭園には、どこからか笛の音が聞こえ、そこには一つの碑文が建っている。ここに気骨のある人物の遺骨を納め、皆が慰問に供物をもってやって来た。あなたは成功を収めたが、若くして亡くなってしまった。運命とは何たるものであるものか。あなたが、この地を開いたおかげで、人々が集まってきて和やかな時間を過ごすことができた。何事も順調であった。
ああ、今から長い年月が経っても、風や雲が起こっては消えていくこの地が、大きな事業の基礎となった地だと云うことは人々は忘れることがないであろう。 大正二年八月十五日 大阪の泊堂愿』

私がこの地を購入した当時、至るところにゴミが捨てられ荒れ放題の状態でした。
色々なことを調べるうちに、閉ざされた事柄が少しずつ紐解かれ、この地に夢をたくした木津亀之助の四七歳という若さで夢半ばで亡くなった当時の想いを察する時、それは悲しく無念で、なんとしても生きて、成し遂げたいと思った事でしょう。その思いは八十年経った今もこの地に及んでいるように思われてなりません。そして、文豪谷崎潤一郎が仮住まいした根津商店の別荘の庭にあった灯篭とつくばいが、私がこの地を購入する以前に、東大阪市の手によって日下のリージョンセンターに移設されています。

木津亀之助の若くしての死去、根津商店の崩落そして、そこから新しく芽生えた谷崎潤一郎と松子の結びつき。この地を舞台にして起こったすさまじいドラマを、今もう少し詳しく調べ上げて後世へと残して行きたいと考えております。

大阪稲荷山動物霊園
大阪稲荷山ペットパーク

伏見稲荷神社発刊 朱55号に当大阪稲荷山神社が紹介されています。